メキシコシティ発8時10分のビジャエルモッサ行き、アエロメヒコ(Aeromexico)503便に乗り遅れた。出発時刻が早まるとの連絡もなく、帰省ラッシュで溢れかえる空港の混雑を読みきれなかった。しかも、呼んだタクシーが遅れて来たのだ。ほかのフライトも予約で一杯、夜行バスでの移動を余儀なくされた。その夜行バスもパレンケへの直行便は満席で、ビジャエルモッサ経由で行くことを勧められた。これらのおかげで当初の予定は1日ずつずれていくのだった。 |
12/26(Sun) | メキシコシティ観光 メキシコシティ(TAPO) 20:30-ADO-翌7:00 ビジャエルモッサ |
|
宿泊先 | (車中泊) | |
諸費用 | ADO | メキシコシティ(TAPO)-ビジャエルモッサ: 762P=\5,110 |
タクシー | イダルゴ-空港: 180P=\1,210 空港-TAPO (SITIO 300): 125P=\840 イダルゴ-TAPO: 30P=\200 |
|
メトロ | 3P=\20 | |
国立歴史博物館 | 入場料: 51P=\340 | |
関連サイト | メキシコ メキシコシティ チアパス州 | |
アドバイス |
|
今回の旅行を企画するにあたって一番苦労したのが、メキシコシティとグアテマラを結ぶルートだった。
ここで外せなかったのが、フローレス(Flores)のティカル遺跡(Tikal Ruins)と、カリブ海のリゾート地である、メキシコのカンクン(Cancun)かベリーズ(Belize)のキーカーカー(Caye
Caulker)だった。
ティカル遺跡はグアテマラまで行くからには必見とまで言われていたし、カリブ海リゾートでゆっくりすることは、遺跡巡りで疲れた体を癒し、極寒と言われるニューヨ−クへ行く前に英気を養うには絶対に必要なことだった。
そして、決定したルートがメキシコシティ(Mexico City)からパレンケ(Palenque)を経由して陸路でフローレスへ行くというものだった。
メキシコを代表するバス会社のADOのウェブサイトを見る限り、パレンケへ直行するバスは13時間以上かかる上に、北バスターミナル(Norte)からは16時発の1本、東バスターミナル(TAPO=Tarminal
de Autobuses de Pasajeros de Oriente)からは18時10分の1本と少なく、一旦飛行機でビジャエルモッサ(Villahermosa)へ飛んでからバスに乗り換えた方が体も楽だと思ったので、そういうルートを取ることにした。
しかし、メキシコにおけるクリスマスシーズンの帰省ラッシュが、日本の年末年始並のものとは思わなかった。
この日の朝、私がタクシーに乗ったとき、すでに時計の針は7時を回っていた。
タクシーが遅れてやってきたというより、出発を予定していた6時半を過ぎてからロビーにいたメキシコ人がタクシーを呼んだのだから7時を過ぎて当然だった。
アエロメヒコ(Aeromexico)の日本支社から受け取ったバウチャーに書かれていた503便の出発時間は8時25分、どう考えても空港へ到着するのは最終チェックインタイムと言われる60分前(荷物を預けない場合、預ける場合は90分前)に間に合うかどうかの瀬戸際だった。
ところが、この日の空港は尋常の混み方ではなかった。
着いた途端にヤバイと思った私の予感はずばり的中、おまけに出発時間が15分早まっていたために、それが致命傷となってカウンターのスタッフに「すでにチェックインタイムは過ぎた。予約カウンターでバウチャーを見せて次のフライトを予約してくれ。」と言われたのだった。
当然のことながら予約カウンターで言われたことは「今日の便は満席、スタンバイリストに名前を書いて待っていてくれ。」というものだった。
この時点で私の頭はパニックになっていた。
私の当初の予定は陸路を使った気ままな旅のようでいて、案外タイトな日程だったのだ。
今日のうちにパレンケ(Palenque)へ着けない場合、すべての予定が狂うかもしれない、というレベルだったのだ。
当たり前のことだが、パレンケへ夜行バスを使って行くとなっても到着するのは翌日の朝、いっそのことグアテマラへ入るルートを全面的に変更することも考えたが、空港であれこれ考えても仕方がなかった。
そこで、私は朝食を取った後で、東バスターミナル(TAPO)へタクシーで向かうことにしたのだが、このとき同一予約番号で管理されていた、1月5日のカンクンからメキシコシティへの444便も自動的にキャンセルされることになるとは思いもしなかったのである。
もちろん、私のバウチャーを見てそんなことを指摘してくれるほどメキシコ人スタッフの頭が回ることはなかった。
ただ、このとき私は第2ターミナルにいて、もしかすると第1ターミナルから出るフライトに活路が見出せるのではないかという気もしていた。
ここで面倒がらずに寄っていれば、InterJetという格安航空(LCC=Low Cost Carrier)がビジャエルモッサ(Villahermosa)やチェトゥマル(Chetumal)、トゥクストラ・グティエーレス(Tuxtla
Gutierrez)に飛んでいることを発見できたかもしれない。
もっともこのフライトに空席があったかどうかは別だが、チェトゥマルからはベリーズシティ(Belize City)やグアテマラのフローレス(Flores)へ行くバスが出ているし、トゥクストラ・グティエーレス(Chetumal)からバスで1時間のところにあるサン・クリストバル・デ・ラスカサス(San
Cristobal de Las Casas)からは、グアテマラのパナハッチェル(Panajachel)やアンティグア(Antigua)へ行くことができたのだ。
後悔先に立たずとはこのことだが、このときは夜行バス以外の選択肢を思い浮かばなかったのだから仕方がない。
東バスターミナル(TAPO)にあるADOのチケット売り場で聞いたところ、パレンケ行きのバスは北バスターミナル(Norte)発も含めて満席で、ビジャエルモッサ行きのバスに乗って、そこでパレンケ行きに乗り換えろとのことだった。
相手はほとんど英語が話せないし、私はほとんどスペイン語が話せない。
私が当初の予定でビジャエルモッサ経由にしてなければ、その地名を言われて乗り換えろと言われても何のことだかわからなかっただろう。
それにしても、またもや私はミスを犯していたようだ。
ビジャエルモッサからパレンケへのバスの予約を忘れたのだ。
メキシコシティの東バスターミナル(TAPO)にはコインロッカーや荷物預かりの施設はなかった。
仕方がないので、チェックアウトしたばかりのサンフェルナンド館(San Fernando)へ戻り、出発まで荷物を預かってもらうことにした。
オスタルに戻ったとき、管理人も含めて何人か日本人がいたが、私が飛行機に乗り遅れて舞い戻ってきたと思った人は誰もいなかった。
荷物を預かってもらった後で、私は気を取り直して、昨年来たときには新型(豚)インフルエンザのせいで見ることができなかった国立人類学博物館(Museo Nacional de Antropologia)へ行くことにした。
同じオスタルにいたダバイノートさん曰く、ここへ行くにはイダルゴ(Hidalgo)からメトロの2号線に乗り、ピノスアレス(Pino Suarez)で1号線に乗り換えてチャプルテペック(Chapultepec)へ行けばいいとのこと、駅を下りて道がわからなかければ、ムセオ(museo)と言えば誰かが案内してくれて問題なく行けるとのことだったが、私は安心しきって途中で寄り道をしていたらどう間違ったのかチャプルテペック城(Castillo
de Chapultepec)へ行ってしまった。
まあ、いいかとチャプルテペック城を見学し、そのままソカロ(Zócalo)へ戻って昼食にする。
大聖堂の前は、前回来たときと違って大道芸人は出ているし、人通りも多いし、これが普通のメキシコシティの街なのだろうと思った。
新型(豚)インフルエンザ騒ぎのときはずべてが異常だったことを忘れ、そのときにガラガラだった町のイメージが残ったままでいたので、飛行機にも乗り遅れてしまったわけだ。
結局のところ、今回も私は国立人類学博物館へ行けなかったのだが、おそらくここには縁がないということだろう。
日本人経営のオスタル「サンフェルナンド館」 | メキシコシティ東バスターミナル(TAPO) |
オスタルの近くの屋台で夕食を済ませた私はロビーにいた人たちに別れを告げ、タクシーで東バスターミナル(TAPO)へと向かった。
空港での苦い経験があったので、バスターミナルには出発の1時間前に到着するように出かけたが、途中の道までが渋滞していて、先行きの不安がますます増していくのだった。
しかしながら、ここはタクシードライバーが英語ができる人で、かつ抜け道を行ってくれたおかげで事なきを得た。
帰省客でごった返すバスターミナルの中で待つこと1時間、首尾よく目的のバスに乗れたものの、車内は予想以上に涼しく、セーターを着込んだだけでは足らず、足元は毛布が必要なほどであった。
もっとも飛行機と違って毛布を貸してくれはしないので、代わりにバスタオルを巻き付けて寒さを防ぐことにした。
しばらくして、日付が変わる(日本時間の月曜の10時)頃、私は携帯電話を取り出してTACA航空の日本支社へ電話をした。
このままでいけば、フローレス(Flores)からグアテマラシティ(Guatemala City)へのフライトを29日から30日へ変更しないといけなかったからだ。
返事は、日本では変更手数料の決済にクレジットカードが使えないので、現地で手続きして欲しいとのことだった。
パレンケ(Palenque)の旅行会社でそれが可能かどうか、それは行ってみないとわからないことだった。
しかし、私を待ち受けていたものは、そんなレベルのことではなかった。