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超民族性こそ身上−日本的カッコよさ

山崎正和(劇作家, 東亜大学学長)

(2002年7月29日 - 読売新聞「地球を読む」)


W杯での日本の活躍と、これらの外国プレスの賞賛が、失い続けた日本人の自信を取り戻すきっかけになることを期待する。

2002年のワールド・カップ(2002 World Cup Korea/Japan)は日本にとってその国民性を世界に知らしめたことで非常に有意義なものだったと思う。
1990年代の「失われた10年」の間、外国プレスが報じる日本はネガティブなものが多かったように思える。
しかし、ワールドカップで見せた日本人の応援風景は、世界のプレスに驚きを与え、その行為は絶賛された。
曰く、品行方正である、曰く、外国チームにも好意的だ、などという論調だ。
特にイギリス各紙は、この全方位外交が各国のサポーターにも影響し、対戦チームのサポーター同士が記念撮影したり、談笑するなど、欧州では考えられない光景が各地で見られ、フーリガンが出る幕はないとの特派員記事を掲載し、経済紙フィナンシャル・タイムズも、「日本人は、憎しみなき熱狂で、W杯をより豊かにしてくれた」と最大級の賛辞を送った、と読売新聞は報じた。
ここで、6月10日付のガーディアン紙のスペシャル・レポート(Blake Morrison on his five days at the World Cup)を紹介しよう。
私は少し読んだだけでここにリンクを張ることに決めた。
Good food, high living standards, low crime figures, clean toilets, smiling hospitality, a wonderful public transport system - Japan begins to seem the ideal venue for the World Cup. (食事は美味しいし、生活水準は高い、犯罪は少ないし、トイレは綺麗だ。しかも笑顔の温かいもてなし、素晴らしい公共交通機関−日本はワールドカップの開催地として理想のところに見え始めた。)
いかがですか?うんざりするようなニュースの中で辞書でも引きながらでも読もうという気になるでしょう。逆に言うとイギリスがそうでないのでは?と思う気もしますが・・・

民族主義の克服という点で、ひょっとすると日本は歴史上初めて、世界の頂点に近づきつつあるのかもしれない。
そう思わせる現象の一つは、2002年のサッカー・ワールドカップで見せた日本人の態度であった。
競技場は一見、日の丸と「必勝」の文字を記した鉢巻きを締め、「日本」と叫ぶ数万の応援団に埋まっていた。
それを遠くから見た人は、むしろ日本民族主義の高揚を感じとったかもしれない。だがよく見れば、大半を占める若い観客は髪を茶色やオレンジ色に染め、鉢巻きの下にはピアスの亘飾りを光らせていたはずである。
彼らはスペイン語で「オーレ"Ole"」と声を揃え、応援歌としてヴェルディの歌劇「アイーダ"Aida"」の行進曲を歌っていた。


イギリスの新聞でも賞賛される日本
highly praised Japan

外国からの報道陣を驚かせたのは、街に各国チームのジャージーが売られていて日本の観客がそれを着て贔屓の外国チームを応援したことであった。
人気が高かったのはイングランドのべッカム選手のジャージーで、一着七千円でも飛ぶように売れた。
ロンドンから来た青年は、それを立ち売りした収入で入場料と滞在費を稼いで、「ほかの国では考えられないことだ」と喜んだといわれる。

とくに意外とされたのは、新潟で行われたイングランド対デンマーク戦で、数千の日本人観客が赤と白のジャージーを着て応援したことだという。
そのときイングランドは準決勝で日本の敵になる可能性を残していたからである。欧州では想像できない観客のこの「無邪気さ」は、ユーゴスラビアの新聞記者を呆れさせ、イングランド・サボーター協会(England supporters association)の会長を感動させた、と報道されていた。

日本はトーナメント初戦でトルコに敗れたが、これを誰より喜んだのは和歌山県の小さな村の住民であった。
昔、沖合で遭難したトルコの軍艦を村民が救助したことから、長い友好関係が結ばれていたのである。
試合の当日、子供たちは頬にトルコの国旗を描き、女性たちはトルコの民族衣装を着て、テレビの取材を受けていた。
そのなかで中年の女性が胸を張って、「日本は私の母親、トルコは私の恋人。恋人を応援するのは当然でしょう」と答えていたのが、印象的であった。

こうした雰囲気に支えられて、大会はかつてない平穏のうちに閉幕した。日本の若者の破壊行為がなかったのはもちろん、外国人応援団のあいだの乱闘も起こらなかった。
警備当局のフーリガン対策が功を秦したこともあるが、それ以上に国民の気分が民族主義と無縁だったことが反映したように思われる。
ワールドカップ大会の歴史を振り返って、これはかなり珍しいことではなかっただろうか。


「芝居心」で応援

この国民心理の背景として、サッカー文化が比較的新しい娯楽であり、愛好者の平均年齢も若いことが考えられる。
他のオリンピック種目のスポーツを違って、それは最初から民族主義との連想の薄いゲームだったのである。
現に日本チームは監督がフランス人のフィリップ・トルシエ(Phillipe Troussier)であり、選手の多くは欧州のプロチームに属し、逆に南米から帰化した選手が加わっている。
選手の派手なパフォーマンスも個性的に見え、このスポーツがどんな集団主義より個人主義の象徴として映っていた。

だからFIFA(国際サッカー連盟)の規則で大会が国別対抗で行われても、日本人観客の多くはそれをまじめにとる気分からは遠かったのであろう。
民族や国家単位の結束はいわば芝居の約束事であり、観客は承知のうえで、「愛国ごっこ」を面白がって演じていたと考えられる。
「どちらかの気持ちになって応援したほうが楽しいじゃないですか」。新聞の取材にそう答えた若い会社員は、試合ごとにジャージーを替えて各国の応援席に座っていたという。
あの「必勝」と日の丸の鉢巻きも、おそらく芝居心の現われと見ることができるのである。

それにしても、こういうスポーツがいま日本人の心を魅了し、国民をあげて民族主義のパロディーを演じさせた、という事実の意味は大きい。
たとえばこの初夏、雑誌「フォーリン・ポリシー(The May/June issue of the U.S. bimonthly magazine Foreign Policy)」に載った挑戦的な論文は、この非民族主義的な日本の傾向に将来の希望を見ているからである。
日本の国民総クール(カッコよさ) Japan's Gross National Coolという表題も奇抜だが、ダグラス・マッグレイ(Douglas McGray)氏のこの論文は、内容も従来の日本論の固定観念を破っている。


ひそかな攻勢

筆者は、昨今の日本の経済的衰退と政治的混迷を認めたうえで、しかしそれがこの国の現状のすべてではないと強調する。
ひそかに攻勢を示しているのは文化であって、ポップ音楽から消費者用電子機器、建築からファッション、アニメに及ぶ、「日本的カッコよさ」の息吹である。
かつて政治的に無カだった冷戦期に、「日本的経営」が経済の勝利をもたらしたように、いま経済の低迷のもとで文化が気を吐いている。
それがあまり気づかれていないのも、ちょうど経済大国化の初期段階で、人びとがその意味に気づかなかったのと同じだというのである。

漫画は日本の若者文化の象徴だが、「ポケモン(Pokemon)」は世界三十の言語に翻訳され、六十五か国で放送されている。
キティちゃん人形(Hello Kitty character)」は世界で年間10億ドルを売り上げ、一万五千に近い商品の意匠に使われている。
漫画の量販店「まんだらけ」は海外に進出し、アメリカとイタリアに支店を開いた。
「J−ポップ」と東京ファッション、日本の生活スタイルを伝える婦人雑誌はアジアを席捲した。
ニューヨーク・タイムズ」がパリやミラノと並べて、東京を国際ファッションの中心として認めた、とマッグレイ氏は声を大にする。

芸術文化の分野でも、北野武(Takeshi Kitano)氏や宮崎駿(Hayao Miyazaki)氏が欧州の映画賞を受賞した。
ハリウッドの映画や米国のテレビ・ドラマには、日本のアニメの影響を受けたものが多い。
昨年ロサンゼルスのゲティー・センターは大展覧会を開き、「超平面(スーパーフラット)」という新しい美術運動を紹介したが、これも日本の若い作家が漫画に触発されて始めたものだという。
総じて日本の文化的影響カは、いま経済大国時代をはるかに上回っていると、筆者は見るのである。


次は言葉で説明

重要なことは、この新しい日本の魅カが伝統に直結せず、民族文化の特性とは無関係だという点だろう。
漫画もファッシも「J−ポップ」も無国籍だし、「超平面」も日本製であって日本的ではない。
「キティちゃん」にいたっては、正式の名がキティ・ホワイトだと聞いて、筆者は唖然とする。
このコスモポリタニズムは独特であって、フランスの愛国主義と対蹠的であるだけでなく、かねて普遍性を誇るアメリカ文化と比べても極端である。
後者にはアメリカの価値観、独自の資本主義と個人主義の思想が透けて見えるが、「日本的カッコよさ」には何の主張も感じられない。
そこには流動する国の矛盾した価値観を反映して、多様な魅カがただ雑然と集められている。この点をどう評価するか、マッグレイ氏もややと惑い気味なのである。

だがもし、この超民族性が「売らんかな」の商業主義の現れではなく、広範な日本人の身についた感性だとすれば、それはそれで立派な国民的特性といえるのではなかろうか。
そして、それがどうやら本物であるらしいということを、今回のワールドカップ大会はみごとに証明したように見えるのである。
マッグレイ氏を安心させるために、今後、日本が必要とするのは自己を説明する批評的な言葉だろう。
日本的特性を主張するのではなく、たんに雑然と見える「日本的カッコよさ」を解説し、それ自体が固有の価値観であることを世界に向けて説得する、論理的で普遍的な言葉が求められるのである。


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